迸(ほとば)しり出る言葉を自ら語れ

                                     老 野 生 淳 一  

『であい−出会い・出逢い・出遇い

 「すべての自然の展開の中で私も抱かれたのだと知ったとき、私は自分が解放されていくのを実感した。深い祈りに驚いた。自分自身を拠り所としていた私に豊かな精神世界が開かれていくようなそれは、私にとっては今、生まれたというほどの驚きだった。しかし、もうそのことは何ほどのことではない。誰でもそのように抱かれているのだから。気が付いているかどうかということの違いだけ。大切なのは、その私がそのことを根拠として生きているか、どうかということなのだろうと思い始めている。」、友人の寺の報恩講の法話の席で、共通の友人でもあり、その席にも連なっていたある念仏者のこのことばについて触れた。

友人の住職からはあらかじめ『であい−出会い・出逢い・出遇い』というテーマを与えられていた。このテーマが彼にとって極めて切実な問題であることは想像に難くなかったので、私の力を超えることを承知の上で、『回心(えしん)』を語らねばならないと思った。

『回心(えしん)』

まず、星野富広さんの「いのちが一番大切だと思っていた頃/生きるのが苦しかった/いのちよりも大切なものがあると知った日/生きているのがうれしかった」の詩を紹介しつつ、「いのちよりも大切なものがあると知った日の私」について思うところを述べた。もちろん「愚禿釈(ぐとくしゃく)の鸞(らん)、建仁辛酉(けんにんかのとのとり)の暦(れき)、雑行(ぞうぎょう)を棄てて本願に帰す」のおことばを見据えてのことであることは言うまでもない。

回心(えしん)の人』

 ついで、「私は本物の宗教に出会えたと思う」と語る生命科学者・柳沢桂子さんについて語った。彼女の言う「本物の宗教」をもし『真宗』と名付けることができるのならば、以下の彼女のことばは間違いなく『回心』を語っていると感じたからである。彼女は語る、「それはいかに自分が小さいかということを知ることであった。宇宙のなかの小さい自分に気付いてみると、自分が宇宙の懐に抱きかかえられているように感じられた。その逆転がなぜ起るかはわからない」、また「それはなんだかわからないけれども、もう私は一人で悩む必要も苦しむ必要もないと確信できました。これまでも、いつも私はその大きな力に包まれていたのに、自分でそれと気付いていなかったのだと感じました」と。  

 柳沢さんは「逆転」ということばで紛れもなく『回心』を語っているではないか。唯円大徳はその消息を歎異抄(たんにしょう)第16条で「一向専修(せんじゅ)の人においては回心ということ、ただひとたびあるべし、その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざる人、弥陀の知恵をたまわりて、日ごろの心にては、往生かなうべからずとおもいて、もとの心をひきかえて本願を頼みまいらするをこそ、回心ともうしそうらえ」と提示する。

 続いて演壇に立った友人の念仏者・兪渶子(ゆ・よんじゃ)さんは私のことばを引き継ぎ、見事に『であい』を語り尽くした。彼女は自ら書いた文章に新たな意味を見出し、その地平から語ることばはその場に居合わせた人々、とりわけ住職の心の深奥に確実に届いたことを実感した。実は、私たちは前夜遅くまで「人間は変わり続けるものである」、「いや、人は変わらないものだ」と論争をしていた。しかし私たちは同じ事柄を異なる表現で語っていたのだということを、私はその席で教えられた。

   最後に演壇に立った私は『出あった人』のことばとして、「そして自分の進むべき道が本当にはっきりと目の前に見えてきました。この宇宙の中での私は小さい、けれどもそれが私である以上、私は最善の生を生きなければならないと感じました」と語る柳沢さんのことばに続いて、神戸の事件で愛娘を失った山下京子さんの『彩花へ−「生きる力」をありがとう』に触れていった。

 「人間は愚かで悪い。残虐です。でも、それ以上に人間は素晴らしいのです」と語る京子さんは、彩花さんが亡くなる3時間前に「お母さん、よかったね。大事なものを手に入れることができたね。これで、彩花は安心できた。お父さん、お母さん、本当にありがとう」という愛娘の声を聴き、今複雑な思いの中で、犯人の少年の更生を信じ彼に語りかける、「共に苦しみ、共にたたかおう。あなたは私の大切な息子なのだから」と。

『娘と私』  

 また、ある夜ユングの「この世は無慈悲で残酷であると共に、神聖な美しさに満ちている。この世の生活において人は無限のものと結びついている。そして無限のものが絶えず全体性の実現へと人を導いていることを理解すれば、人は真にその生命を生きることになるだろう」という最期のことばにはからずも深く頷くことのできた23歳の娘は今、涌き出でる思いのままに筆を執り続けている。

 『であい』から『いのちのつながり』へ、劈(ひら)かれゆく自分を予感しながに私も語り続けさせてもらおう。

(1998.12.1高田教区報「響流(こうる)」所載)

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