「再びのいのち」
三たびの誕生
私は、人生には三回の誕生があると思っています。まず母の胎内から出てきた時が第一の誕生です。次に廻心(えしん)の時、これが二度目の誕生。そして、いよいよ浄土に往く時=死、これを私は三回目の誕生と呼びたい。ですから二回目の誕生がない限り、三回目の誕生はない。そこに、いよいよという時になって「死ぬに死ねない」ということが起きてくるわけです。では、この人生にとって第二の誕生といわれる「廻心」ということ、これはどういうことでしょうか。親鸞聖人のお言葉で言えば「雑行を棄てて本願に帰す」。キリスト教では「目から鱗が落ちる」という言葉、これはパウロの回心(かいしん)という有名なお話です。また、禅宗には「大死一番、絶後に甦る」という言葉もあります。そのように廻心とは重要な宗教体験です。けれども重要視しすぎると間違います。「誕生」という言葉通り、私たちが人生を問い続けていく出発点、あるいは通過点なのです。
死ぬまで生きる
私たちは何かしらの目的を持って生きています。そして、その目的に向かって努力し、それを達成することを最高・最善のこととしているのではないでしょうか。そのような価値観から解放されることが「廻心」なのです。これは努力する必要がなくなるという意味ではありません。本来の意味で私たちが為すべきことが見出せるのです。死ぬ不安がなくなるということでもありません。死ぬまで私の為すべき道を歩んでいくことができる。たとえ中途半端に終わろうとも、「必ず誰かが引き継いでくれる」という安心感のもとに生きていける、「死ぬまで生きる」ことができる自分を戴くことができる。そこを唯円さんは「ある時見方の転換が起きて、そこからまた私たちの人生は新しい歩みを始めるんだということが廻心である」と、歎異抄の中で私どもに教えてくださっているのだと思います。
「自分探し」の落し穴
ところが私たちはともすると廻心を目的としてしまいがちです。「こんなすばらしい体験をした」ということで立ち止まってしまう。今「自分探し」ということが盛んです。今の自分に満足していないからでしょうが、本来あるべき自分がどこかにあるに違いないと探し始めるのです。するとちょっと見方を変えただけで未知の自分というのが見え、それを本当の自分と思い込んでしまう。それは廻心でも何でもありません。視点をちょっとずらしたら別の自分が見えたということに過ぎません。それほど人間の視野は狭いのです。けれども一番大事なのは今の自分です。自分というのは、改めて出会う必要がないほど明らかな今の事実なんでしょう。でも今ここにある自分を認めたくない。なぜ認めたくないかというと、ちっぽけな自分だから、罪悪深重・煩悩熾盛の悪人の自分だからです。悪人でいたくないのでしょう、私たちは。それで、悪人のはずがない、そんな俺ではないはずだと、いろいろ求めていくのでしょう。
仏と遇う、自分と遇う
宗教の出発点は、ある意味では自分との出会いを求めるところに始まるのでしょう。しかし本当の自分との出会いを求めている間は、仏(「神」、「宇宙」、「本当に大きなもの」などと表現してもいい)と出会うことはできないし、だから自分との出会いもないと思います。「本当の自分に会いたい」、あるいは「仏に出会いたい」、そう求めているその自分が打ち砕かれた時に初めて仏との出遇い、そして自分との出遇いがあるのだと思います。それは自分との出遇いというより、いろいろな人とのつながりの中で私が私自身と出遇い続けている、そしてまたこれからも自分と出遇い続けていかなければならないということなんです。それは、教えていただくという世界からでしかない。その世界のありよう、それを親鸞聖人は諸仏と名付けてくださった。阿弥陀様が私に直接語りかけるのではなく、阿弥陀様の言葉を具体的な言葉として私に伝えてくださる方が諸仏です。私にとっての諸仏とは娘であり、先輩であり、友人です。そしてそうした諸仏から教えられ続けている私が今ここに居るということ、これだけは疑いようのない事実なのです。