『子どもから願われている大人として、今』
「幼稚園は、……幼稚園生活を通して、生きる力の基礎を育成するよう……努めなければならない」と幼稚園教育要領の総則に記されていますが、保育所保育指針には、その「生きる力の基礎の育成」を更に具体的にする形で、「豊かな人間性を持った子どもを育成する」、「現在を最もよく生き、望ましい未来をつくり出す力の基礎を培う」とあります。保育園、幼稚園ではこの保育指針等に基づいて日々の保育に携わっているわけですが、キーワードは『基礎』だと思っています。つまり保育園、幼稚園はさまざまな基礎を学ぶ場であるということです。
では、子どもたちはどのように学ぶのでしょう。結論的に言えば、「豊かな人間性」を持ち、「現在を最もよく」生き、自らと子どもたちの「望ましい未来」をつくり出そうとしている大人たちに育まれることを通して学んでいくのでしょう。「学ぶ」とは「マネぶ」ことと聞いたことがあります。モデルは大人―保育、教育の場に限って言うならば保育者、教師です。保育者の保育観、教師の教育観、そしてその基礎となっている人生観がもろに問われてきます。
ここ数ヶ月に少年による衝撃的な事件が立て続けに起こりました。長崎の小6女子同級生殺人、東京の中1の女子が幼児をマンションから突き落とす事件、そして本県の小学生による刃物傷害事件。ここで事件の背景についてとやかく言うつもりはありません。ただ報道を見て即座に思ったことを少し述べてみたいと思います。
それは、犯行に至った彼・彼女たちはどういう幼児期を過ごしてきたのだろうか、ということでした。恐らく保育園か幼稚園に通っていたことでしょう。今敢えて家庭は問いますまい。保育園で、幼稚園で本当に信頼できる大人に出会っていたのでしょうか。ありのままの自分を無条件に、全面的に信頼され愛されているという思いを一度なりとも実感したことがあったのでしょうか。残念ながら「なかったのだろう」としか想像できませんでした。とするならば、これら事件の責任は保育に携わっている私たち一人ひとり、もっと厳密に言えばこの私にあると言うべきだと思いました。事件の被害者は被害者、でも事件を起こした加害者も実は幼児期に「生きる力の基礎」を育てられることなく少年期を迎えた被害者なのかもしれません。なぜなら信頼され愛されているという実感を持てればその人を悲しませるような行動をとることはありえないからです。そういう信頼できる大人に出会えなかった彼・彼女の不幸を思います。
「家庭が機能しなくなって久しい」という言い方をする一部識者の発言に賛意を示すだけの保育者、教師が少なくありません。それは責任の放棄だと言わざるを得ません。家庭が機能していないと言うなら、子どもたちと接しているそれぞれの現場での数時間の間に何ができるのかを考え、実践するのがプロの教育者というものではありませんか。
能生町では昨年から「学校保健委員会」が立ち上げられ、その場で学校保健のあり方をめぐって心の問題も大きく取り上げられました。私も意見を求められ2点ほど発言させていただきました。「学校からでは遅い。もっと幼児期に目を向けてほしい」、「それゆえ保育園と学校が、相互批判的な議論を積み重ねる必要がある」と。
当園では、当然のことながら、冒頭に触れた保育所保育指針の示す内容を実現すべく保育に臨んでいます。そのために、誰もが一度は「辞めたい」と思ったような厳しい研修を課してきました。相互批判、子どもの発達に本当に責任を持つには全員が対等な立場で自由に意見が言えなくてはなりません。でもそれを乗り越え実現できた今、もちろん完璧とは言えませんが、子どもたちを心の底からかわいいと思い、この子らの人生に責任を持てる保育者が育ってきました。そしてそのことは保育者自身の人間としての成長でもありました。
願わくは、子どもの集うすべての場が、正直で誠実な大人と向き合える場であることを。
7月のとある日、K中学校の校長先生からお電話をいただきました。「9月1日発行の新潟県中学校長会の会報の『教育界への提言』欄に執筆してほしい。」というものでした。なぜこの私に白羽の矢が立ったのか理解できず理由を確認したところ、県の教育委員会から紹介されたということ、県教委に知り合いがいるでもなく困惑は増すばかりでしたが、寄稿させていただくことについては光栄なことと思いお引き受けいたしました。