真宗学の方法と課題についての一考察

報告者:老野生 信

 はじめに                         

 本会ではそれぞれの研究課題について発表し、その内容について質疑応答という形をとり、学業の研鑽を目的としている。具体的には修士論文へ向けて、それぞれの課題を提示し、質疑応答の中で理解を深め、真宗学に対するアプローチの仕方を不断に問うことができるような主体の確立を目指していきたいと思う次第である。

 本報告では、「始めたばかりの真宗学」において最も重要である、真宗学の方法論を探っていきたい。特定の「思想」を扱う以上、そこにおける課題や先人たちが確立してきた方法があるはずである。伝統への理解とそれに対する批判を通してのみ、我々の思想へのアプローチが可能となるであろう。本報告での課題は真宗学方法論史の整理とそこから我々の取るべき方法を学ぶことが目的である。以下にそれを見ていこう。

真宗学の位置づけ                      

 大谷大学では真宗学を文学部の一学科として位置づけている。つまり真宗学は科学であり、その中の人文科学である。人文科学は人間の歴史と文化に関する学問であり、人の営み、書いたものを素材とする。それを整理し、体系化し、客観的方法で系統的に解明するという課題を持つ。もちろん純粋なる客観性はありえなく、それが自己の中に関係を持たないような学問はない。客観的に事象・言語を構造として把握しようとする科学的・実証的態度と、学問する主体としての自己の現状を問うことが肝要である。そのような作業の中から自己・社会に対しての意味づけを行うことを目的とする学問形態である。大谷大学ではここに真宗学が位置づけられていることを一度確認しておく。

大谷大学における真宗学の伝統                

 第一に大谷大学HPにおける真宗学の立場を見てみよう。加来雄之はそのVTR「2009年度新入生・在学生へ向けたメッセージ/文学部 真宗学科」において

(前略)真宗学はその出発点において、金子大栄先生によって次のように確かめられています。「親鸞の著作を学ぶことが真宗学でなくして、親鸞聖人の学び方を学ぶのが真宗学である。」つまり、親鸞を学ぶだけが真宗学ではなく、「親鸞のように学ぶ」のが真宗学だ、というのです。(後略)

と述べている[1]。大谷大学における真宗学の根本は金子大栄の『真宗学序説』における言葉にある。大谷大学での真宗学の方法は『真宗学序説』をもって嚆矢とし、ここから様々な見解が出される。非常に大雑把ではあるが、それを見ていくことにしよう。

1、金子大栄の真宗学

『真宗学序説』(1922年の講演録)

「真宗と真宗学」(1971年の講義「真宗と真宗学」の筆録)[2]

 真宗学の根本となる『真宗学序説』には、「第一に対象論」、次に「方法論」、そして「何故に」ということが出てくるとしている。[3]その中で、対象は「大聖の真言」であり、「七高僧の解釈は真宗学問の方法である」としている[4]。また「真宗と真宗学」では、『選択集』を真宗の書物とし、『教行信証』が真宗学であるとしている[5]。金子においての真宗学は「親鸞の学び方を学ぶ」という考えの下に一貫されており、彼にとっての具体的な方法は自己に立脚した内観的方法であり、自己に「大聖の真言」を位置づけていくことが「真宗学」だったといえる。真宗を学ぶ態度、そこに彼の視点があった。

 しかし、そこで提示された方法は具体性を持つものとは言いがたく、彼の内面において確かめがなされているということに留まるものであった。それは非常に大事なことであるが、金子の講義には確たる科学的・実証的方法についての言及は見受けられなかった。

2、寺川俊昭の真宗学

「親鸞における学の特質」1978年

「真宗学方法論序説」1981年

「僧伽の学」1983年

 寺川において、仏教の学徒としての姿勢を問題とし、方法は「聞思」であると述べ[6]、その対象は金子を継承する形で「大聖の真言」にあるとしている[7]。彼の言葉を引用しよう。

衆生は真実を開示する本願に、明晰なる覚知を得るまでに聞くのである。聞に響流する真実の言葉。このような言教の把握をこそ、真に客観的というべきではあるまいか。対象である教言を、われわれの分別を以て解釈するのではない。却ってわれわれの分別的解釈を破るような告名を、聞くのである。[8]

ここに寺川の「真宗学」に対する態度が現れているように思える。彼にとって重要なことは真実の言葉の把握である。そしてそれは我々の分別的解釈を破るものであるという。これだけでは全く理解しにくいかとは思うが、上記三編の論文は具体的方法が明らかにされることなく続いていく。彼にとっての真宗学とは「実証的・歴史的研究を行うこと」ではなく、「自己一人に全責任を負う内的推求」[9]であったのであろう。その方法は聞思に極まるとしているが、具体的な方法論についての言及はなく、自己の上で真宗が成り立つかどうかという問題が重要だったようである。 

3、廣瀬杲・幡谷明の真宗学

廣瀬杲「真宗学とは何か」1983年

幡谷明「真宗学の課題と方法論についての断層」1979年

 廣瀬杲は真宗学とは「生活と一枚の仏教学である」[10]と一言で言い切っている。さらに「真宗学とは、悪しき意味での護教主義的な宗派学とえらび、同時にまた、単なる知的関心を満足さすための、悪しき意味での文化主義的な教理学ともえらんで、人間の真宗を明らかにする仏教の学問である」[11]と答えている。主題が「真宗学とは何か」を問うものであるため具体的な方法が示されないが、実証主義・護教主義となってはならないという姿勢の上に成立する学問であるとしている。

 幡谷明は真宗学について「何よりも先づ信仰の確立を主体的に求める学」[12]とし、生活と一枚の仏教学という態度は幡谷にも見られる。そして実証的学問について「宗学がややもすれば陥り易い独善性を是正し、あるいは更に確実性を与えることに大きく寄与した」として評価し、「真宗学の基本的立場とされる行学は、決して解学を軽視し無視し、否定するようなものであってはならない」と戒めている[13]。彼の真宗学の態度は実証的・科学的な研究と信心の確立との両面の緊張した関係のなかでの学問であり、それが「学問のための学問」となることを否定しながら展開するものである。

 ここにおいて真宗学がどのような学問を目指すべきかが一つ明らかになったように思える。しかし、一方で思想を解明するその具体的方法を鮮明にしたとは言い得ない。そこで思想史学の方法はどのようになっているかを参照してみたい。

日本思想史学の方法について                 

 本節においては思想史家がいかにして思想を捉えようとしているかを考えていきたい。上に見てきたように、真宗学の方法は非常に見えにくい。そこで同様に思想を扱う学問である思想史学の分野に焦点を当ててみたい。ここでは家永三郎、丸山真男の二人の思想史家の思想史の扱いについて触れ、何らかの示唆を得ることが出来ればと考える。 

1、家永三郎の思想史学の方法

『日本思想史学の方法』

 家永三郎の思想史学の方法は上記の本を読んでいただければ、その実践と態度を見ることが出来る。その方法の根本を抜き出してみたい。

 家永の歴史認識は現在の視点に立って過去を遡及してみることであり、主体的・自覚的な将来への意志がないならば、学問としての科学的・体系的歴史認識を欠くことになるというものである[14]。その歴史を学ぶ態度は、現代の我々の問題であるとしている。家永はクローチェの「凡ての真の歴史は現代の歴史である」という言葉を引用し、思想史が一つの学問となるときは、我々の実践的関心があってはじめて可能になることを述べている[15]

 また思想史家は自ら思想家でなければ成り立たず、自己の傾向と必ずしも一致しない対象にも価値あるものを見出す努力を試みる義務を持つものとならなければ思想史家とはならないと述べ、そして宗派的思想が存在する状況の中で自家を中心とする思想をつくろうとすることを厳に戒めている[16]

 家永はその方法について、

研究者は脈絡なき思想各要素の間に有機的関係を読みとり、その関係に従って当該思想を整理した上で再現することが必要である。換言すれば要素のみならず、その論理的構造を認識しなければならぬ。

と述べ、それではじめて思想の本来の姿を理解したといいえるとしている[17]。そしてその思想を社会的・歴史的連関のなかで捉えることが思想の十全な理解を可能にする。以上が非常に大雑把であるが、家永三郎の思想史学の方法とその態度である。

 家永の思想史学の方法は真宗学を学ぶものにとっても当てはまる提言である。これは歴史学であり、真宗学とは関係ないということは全くないと思われる。この実践的・主体的方法がすなわち科学的・実証的であるということが真宗学においても重要であると考えてよいのではないだろうか。

2、丸山真男の思想史学の方法

「思想史の考え方について」(1960年の講演録)

 丸山真男の思想史の考え方については他に「思想史の方法を模索して」という論文があるようだが、今回は、以上の講演録を元にして考えることにしたい。本講演録は『忠誠と反逆』に収められているため、本文はそちらを参照されたい。では、以下に丸山がどのように考えていたかをみていきたい。

 これを読み進めていくと、いきなり我々は問題にぶつかることになる。丸山は「思想史と限らずヨリ一般的にいって、あらゆる方法論というものは、いかなる場合においてもこういう方法をもってすれば、必ず一番いい結果が得られるといった意味では語りえない」という考えをもち、実際に思想史に入る前に方法を考えるのは懸命でなく、実際に問題と直面したときに考えられていくものであると示す[18]。そこを前提としながらも、思想に対するアプローチの根源を示すことに、この講録は向っていく。

 丸山は思想というものがどのようものが実質的に含まれているか、またその含まれる諸要素の相互の連関をいかにして考えるかを考察する。その一つして言葉と観念、つまり時代により言葉は意味が変わり、言葉と観念には一義的な関係があるわけではないことを述べ、その多義性を意識しなければならないということである。

 そのことを前提にしたうえで、思想と対峙するときには観念形態の成層、レベルを考え、価値や意味や機能、役割が一体どのレベルで問題としているかを区別しなければ混乱を生じるとしている。丸山は、

たとえば生活感情とか実感とか、そういうものによって裏付けられないところの理論なり学説なり教義なりは「空虚」であり、逆に理論、学説、教義あるいは世界観というものによって方向付けられない実感は「盲目」である、つまりエネルギーはあるけれどもどこにいくか、どういう機能を果たすかわからない。

と述べている[19]。思想と生活は一体でありながらも、その思想が教義や理論に裏付けられないならば盲目的信仰に過ぎないものということである。

 次に、ある思想の価値を評価する場合、どういう基準にするべきかについて論じている。その基準について、

1、解答の徹底性。思想は人間のおかれた問題状況に対する答えという意味を持つものであるから、解答の徹底性が問われてくる。

2、浸透範囲、流通範囲

3、思想の幅

の三分類があるとしている。このような様々な評価基準を設定できるのであるから、価値判断を下す際には、どういう基準に照らして判断を下すのかをはっきりさせなければならないということであろう[20]

 次いで、思想史家の仕事について言及する。思想史家の仕事は「思想の純粋なクリエーションでは」なく、「いわば二重創造」「追創造」である、としている[21]。歴史研究一般で行われる作業と同様、史料的な裏づけを必要とする。しかし、それだけでは成立しえず、歴史的対象に対して自分が働きかけるということが必要となる。

歴史によって自分が拘束されることと、歴史的対象を自分が再構成することとの、いわば弁証法的な緊張を通じて過去の思想を再現する。このことが思想史の本来の課題であり、またおもしろさの源泉である。[22]

と述べている。以上が丸山における思想史学の方法についての概観

である。この緊張関係が丸山の思想史学の根底にあるが、真宗学するものとしても必要な緊張関係であることは主張してよいだろう。

3、まとめとして

 以上、思想史学の方法を二人の思想史家の言葉から概観してきた。彼らの根本姿勢は実証的・科学的方法に支えられた、きわめて主体的・実践的な研究である。その姿勢と方法について我々も学ぶべき多くの点が含まれているように思える。

信楽峻麿が提示する現代真宗学の方法             

 最後に、現代真宗学に対して痛烈な批判を加える信楽峻麿の提唱する方法論をみていこう。信楽はその著、『親鸞における信の研究』(上)において「今日における真宗学の方法論的課題」を序論として掲げている。

 信楽はその姿勢として「現代に真宗学するということは、先人の足跡としての過去の教学に学びながらも、さらにそれらを乗り越えて、改めて現代の諸状況のただ中から、自己の主体をかけて、親鸞の原意趣に向かって参徹してゆくほかはないと考える[23]」と明確に親鸞回帰を訴える。

 さらに真宗学のあり方を考えるに、その方法論的課題を以下の三点を掲げている。

1、    科学的客観的研究の視点を充分に摂取することにより、真宗の原義、親鸞の信心、思想の本質をよく解明してゆくこと。

2、    真宗文献の解読にあたっては、徹底した主体的解釈を試みつつ、その言語表現を超えて、その根底に宿る宗教体験そのものへ参徹してゆくこと

3、    たえず現代の思想的境位、諸状況のただ中から、実存的な問いを発しつつ、親鸞の原意趣、真宗の本質を捉えなおしつづけてゆくこと。[24]

これらを一つ一つ、丁寧に説明しているがそれぞれについては、思想史学の方法で述べたことと重複することが指摘できる。

第一の点において、真宗学に歴史学の視点を導入することを中心に主張し、その他の諸学問の視点をも取り入れ、学際的に真宗を学ぶという姿勢をもってアプローチしていくことが大切だと主張する。[25]

第二点には、宗教言語は基本的に表現し得ないものを表現したものであり、矛盾を宿して成立しているため、訓詁注釈学的に綿密に研究したとしても足りることはなく、その言語化以前の宗教体験にいかに追体験していくかが重要であるとしている。つまり親鸞思想の自己への再構成が必要であると述べているのであろう。[26]

第三点としては、釈尊の生きた時代、親鸞の生きた時代、我々が生きている時代とは文化的に遠く隔たりがあり、その距離をいかに克服するかという問題がある。その距離は、様々な問題が山積する現代の諸状況から現代的苦悩を背景とした主体的・実存的な問いを発しつつ、その応答してゆくことにおいて克服されうる。その不断の問いにより、現代に浄土三部経や親鸞の原意趣が、時間的・文化的な垣根を越えて現代に現れてくるとしている。[27]

 以上、信楽の真宗学の方法論的課題の提示である。

全体のまとめとして                      

 これまで大谷大学での伝統的営為、思想史学の方法、信楽峻麿の提唱と概観してきた。その他にも多くの真宗学方法論や現代教学に対する考察もあったが、いずれも真宗学する者の姿勢を問うものであった。つまりここに真宗学の課題があると考えられているのである。しかし、その課題から実証的・科学的方法が明らかとはならなかった。

 そこで思想史学の方法に学ぶことが大きいのではないかと思い、それを確かめた。丸山真男、家永三郎の思想に対する姿勢と真宗学の先学の姿勢には共通した点が見られるが、思想史学は実証的・科学的な方法に基づく、主体的・実践的な学問であった。このように真宗を学んでいくことが現代真宗学の課題であると考える。現代に至るまで諸科学が明らかにしてきたことを十全に踏まえつつ、学際的に真宗学研究を進めていく必要があることを信楽は主張していた。また幡谷も解学と行学の緊張関係を述べている。実践的・主体的姿勢と客観的・科学的方法は相反するものでなく、その両立をこそ目指していくべきである。

 さらに、真宗学する者は仏教が生活と一体になるところ、現代的問題と対話しつつ、それを問い続けるという姿勢を失ってはならない。思想は自己との弁証法的緊張関係によって不断に自己を見つめる鏡となり、回帰すべき原点を提示してくるものである。それは科学的かつ主体的な方法によって裏付けられ、成り立つものであることは言うまでもないことであろう。

 

[1] 大谷大学ホームページ、学部・学科紹介、真宗学科(2009..14参照)

http://www.otani.ac.jp/annai/gakubu/bungakubu/gk01.html

[2] これは『親鸞教学』第70号〜74号に掲載されたものである。主題は第72号より変わるが、副題が「真宗と真宗学」(三)〜(五)となっているため統一した。

[3] 金子大栄『真宗学序説』p.20

[4] 金子大栄『真宗学序説』pp.28-29

[5] 金子大栄「真宗と真宗学」『親鸞教学』第70p.115

[6] 寺川俊昭「親鸞における学の特質」『親鸞教学』第33pp.21-22

[7] 寺川俊昭「僧伽の学」『親鸞教学』第42p.26

[8] 寺川俊昭「真宗学方法論序説」『親鸞教学』第38p.27

[9] 寺川俊昭「僧伽の学」『親鸞教学』第42p.33

[10] 廣瀬杲「真宗学とは何か」『親鸞教学』第42p.114

[11] 廣瀬杲「真宗学とは何か」『親鸞教学』第42p.133

[12] 幡谷明「真宗学の課題と方法論についての断層」『親鸞教学』第34p.53

[13] 幡谷明「真宗学の課題と方法論についての断層」『親鸞教学』第34pp.55-56

[14] 家永三郎「家永史学の基本構想」『日本思想史学の方法』p.17

[15] 家永三郎「日本思想史学の課題」『日本思想史学の方法』pp.28-29

[16] 家永三郎「日本思想史学の課題」『日本思想史学の方法』pp.34-36

[17] 家永三郎「日本思想史学の方法」『日本思想史学の方法』pp.38-39

[18] 丸山真男「思想史の考え方について」『忠誠と反逆』p.357

[19] 丸山真男「思想史の考え方について」『忠誠と反逆』pp.371-374

[20] 丸山真男「思想史の考え方について」『忠誠と反逆』pp.374-376

[21] 丸山真男「思想史の考え方について」『忠誠と反逆』p.379

[22] 丸山真男「思想史の考え方について」『忠誠と反逆』p.380

[23] 信楽峻麿『親鸞における信の研究』(上)p.4

[24] 信楽峻麿『親鸞における信の研究』(上)p.4

[25] 信楽峻麿『親鸞における信の研究』(上)p.5-8

[26] 信楽峻麿『親鸞における信の研究』(上)p.8-11

[27] 信楽峻麿『親鸞における信の研究』(上)pp.11-13

【参考文献】

家永三郎『日本思想史学の方法』名著刊行会 1993

上田義文「「教学の現代化」とは何か―根本的理解の一つの試み―」『真宗教学研究』第一巻 永田文昌堂 1971

金子大栄『真宗学序説』文栄堂書店 1966

金子大栄「真宗と真宗学」『親鸞教学』第70号 1997

金子大栄「真宗と真宗学(2)」『親鸞教学』第71号 1998

金子大栄「七祖の改革―真宗と真宗学(三)―」『親鸞教学』第72号 1998

金子大栄「回向と回心―真宗と真宗学(四)―」『親鸞教学』第73号 1999

金子大栄「願生感情―真宗と真宗学(五)―」『親鸞教学』第74号 1999

信楽峻麿 改訂『親鸞における信の研究』上巻 法蔵館 2007

寺川俊昭「親鸞における学の特質」『親鸞教学』第33号 1978

寺川俊昭「真宗学方法論序説(二)―真宗学の対象―」『親鸞教学』第38号 1981

寺川俊昭「僧伽の学―真宗学方法論序説(三)―」『親鸞教学』第42号 1983

幡谷明「真宗学の課題と方法論についての断層」『親鸞教学』第34号 1979

廣瀬杲「真宗学とは何か―金子大栄先生の学恩を謝す―」『親鸞教学』第42号 1983

福嶋寛隆「現代教学樹立の前提」『真宗教学研究』第一巻 永田文昌堂 1971

丸山真男「思想史の考え方について」『忠誠と反逆』筑摩書房 1992

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