「道、白き・・・」

 

                                 老 野 生 淳 一

 

 おととしの十月のある日、たまたままだ暗いうちに目がさめた。何となく書斎に入ると机の上に一通の手紙が置かれていた。封筒に入っているでもなく、ノートを破った紙にはびっしりと細かい文字が書かれ、二枚目の最後には大きな文字で「お父さん、ありがとう」と ( したた ) められてあった。当時二十三歳の娘からのメッセージであった。

 一歳の時から喘息発作に苦しみ、小学校の二年間を自宅から遠く離れた病院で生活、中学校も親元を離れ寮生活、卒業後いろいろな経緯をたどった末に大阪で一人暮らしをしていたが、心身ともに行き詰まり実家に戻ってきたのがその年の五月初め、疲れ果てた心身を癒すべく病院通いをしながら静養していたものの、永年の積もり積もったわだかまりに翻弄されて本当の落ち着き場所を見出せないままに半年近くが過ぎようとしていた頃であった。その晩、やり切れない思いを抱きながら自室に閉じこもっていた彼女は、徐々に感情が昂ぶりある種の極限状態に至ったのであろう、自暴自棄というかパニックに陥りそうになったという。その時枕もとに置いてあった一冊の書物がふと目に入り、何気なくめくったページのことばに釘付けになった。

ここ一ヶ月、ようやく本を読めるだけの落ち着きは取り戻せた彼女に預けていた何冊かの書物のうちの一冊、書名は忘れたが、深層心理学者ユングの伝記物語であった。そこにはユングの最期のことばとしてこう述べられていた、「この世は無慈悲で残酷であると共に、神聖な美しさに満ちている。この世の生活において人は無限のものと結びついている。そして無限のものが絶えず全体性の実現へと人を導いていることを理解すれば、人は真にその生命を生きることになるだろう」と。彼女は全てを理解した。そして主治医から「今度飲めば生命の保証はしない」と厳禁されていたビールで独り乾杯したという。そして夜を徹して書き綴ったのが冒頭に述べた私へのメッセージであった。次の日からほぼ毎晩、彼女は ( ) ( ) でる想いのままに筆を執り続け、更には曽我量深、平野修両師の著作にも親しむようになっていったのである。

ちょうど同じその秋、年来の友人が「難病を賜って、ようやく気づかせてもらいました。そしてこれまでの歩みの中で経験したことが、何一つ無駄なことはなく、遠回りでもなかった、すべてがこの気づきのための大事な ( かて ) であったと知らされました」と、拡張型心筋症という不治の病と共に生きていくことを自然に受け入れられたこともユングの言う「共時性」であろうか、不思議な縁を感じざるをえない。

「一つの 白道 ( びゃくどう ) あり、 ( ひろ ) さ四五寸 ( ばか ) りなるべし」、道を見出した彼女の青春はその秋からスタートした。今や玄冬に向かって歩いている私に青春を取り戻すすべはないが、彼女は四月から高校一年生、たとえ 余人 ( よじん ) には ( うかが ) ( がた ) くとも彼女は「確かに豊かな青春を歩んでいる」ということだけは言える。

二年前の秋のことは、娘そしてかの友人と共に忘れないだろう。因みに、春の色が青ならば秋は白だそうである。

(「同朋新聞」10月号 2000.10.1 東本願寺出版部)

T O P 安専寺からのメッセージ